「神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選ばれました」(1コリント1:27)
かつて西岡常一という法隆寺専属の宮大工がいました。彼は飛鳥時代から受け継がれてきた寺院建築を後世に伝え、その卓越した技術と知識で「最後の宮大工」と称されました。多くの寺院の改修工事を手掛け、特に300年に一度とされる、昭和の法隆寺大伽藍改修工事では陣頭指揮をとりました。
彼は木の癖を見抜いて、それを適材適所に使いました。個性を殺さず、癖を生かす。それは人も木も、育て方、生かし方は同じだというのが彼の一貫した持論でした。その根底にあるのは、自然への深い畏敬の念です。自然を征服するとは、西洋の考え方であり、我々日本人は自然に生かされていることを忘れてはならず、また堂塔の建築には木を買わず、山を買えと言って、木そのものを単体として見るのではなく、その木が育つ土壌や、生育状況を見ることの重要性を強調しました。「木組は木の癖組なり、人組は人の癖組なり」と言って、木の癖を見てそれを組むには、それを組む職人の心が大事であるとし、人の癖をよく見ながら、棟梁として現場で働く人たちをよくまとめました。
しかし、学者や専門家との対立も多く、彼らの意見を机上の空論として一歩も引かず「学者は大工のつくったものを並べて、それを学問と称しているが、それは大工以下だ。仕事はわしがやる」と言い、法隆寺には鬼がいると言われました。弟子の育成に関しては、「頭で覚えたものは、すぐ忘れてしまう。道具は自分の肉体の先端や。手自ら覚えることが大事、教えなければ子どもは必死で考えます。考える先に教えてしまうから、身につかん。今の学校教育が忘れていることやないですか」と言い残しています。
西岡常一の弟子の一人の宮大工が言った言葉です。「器用な子は早く上達する。でもすぐ慢心して落っこちたり、また上がったりで、波を打ってばかりだ。不器用な子は、始めはなかなか芽が出なくても、何かを機にコツをつかんだら、そこからどんどん伸びていく。だから「不器用の一心」がいい。西岡常一棟梁も「不器用の一心に勝る名人なし」と言った。器用な子は、その器用さに溺れる。何でもすぐ分かった気になるから考えが浅い。何の訓練もしないのに器用な子と言われるのは、単に頭のつくりが器用なだけだ。そう考えたら、能力のある子はダメだ」この宮大工が言った「器用な子」「不器用な子」は、私たちの生活の多くの場面で、何かよく当てはまりそうです。「器用な人」より「不器用な人」の方が人間的に何かにじみ出るものがあります。そして同じように信仰の面においても。
「神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました」一人前の大工になるのに近道なし。信仰にも近道なし。まさに『不器用の一心に勝る名人なし』です。
(寄稿 赤波江 豊 神父)