「兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』という者は、火の地獄に投げ込まれる」(マタイ5:22)
恐ろしいイエスの言葉です。しかしイエスの言葉は、人間の心理をよくついています。「最高法院」「や「火の地獄」とは比喩で、最悪の状態を意味します。言葉は自分に対する一種の自己暗示で、人に向けて語る言葉は、同時に無条件で自分の脳に入ってきます。自分の言葉を一番聞いているのは、他ならぬ自分の耳だからです。実は、脳は主語を認識しないのです。誰かに対して、「ばか」とか「愚か者」言えば、脳は自動的に「私はばかで愚か者」だと処理し、誰かに対して「素晴らしい」とか「最高」とか言えば、脳は自動的に「私は素晴らしい、最高だ」と処理するのです。そしていい言葉でも、悪い言葉でも、それを繰り返す内に、自分自身をそのような状態にしてしまうのです。「人間の前には、生と死が置かれている。望んで選んだ道が、彼に与えられる」(シラ書15:17)天国も地獄も自分の心の内にあります。「心は、そのあるべき場所にある。そして、それ自体が地獄を天国にし、天国を地獄にする」(『失楽園』ジョン・ミルトン)
マタイ5章21節から26節のイエスの厳しい言葉は、怒りや怨みなどで機能不全に陥った人間の心理状態を表し、これが「牢」(5:25)なのです。私たちの幸せを妨げるのは、他ならぬ私たちの思考や、心に思い描くイメージだけなのです。また人間の記憶はしばしば劣化し、また無意識の内に書き換えられます。その書き換えられた記憶の中で人を批判、非難して自分の方が正しく、優れていると錯覚します。そうして自分を被害者に仕立て上げ、苦しむ権利を守ろうとしているのです。そして、この不幸を自分のアイデンティティーにし、強迫的な思考を燃料にして、その気持ちを持続させ続けているのです。
これが「牢」という機能不全に陥った人間の心理状態で、それは、曇りガラスを通して周囲を見ているようなものです。ですから、その錯覚や幻想に気づかなければなりません。赦しはイエスの福音宣教の最も大きなテーマです。しかし赦そうとして、赦せるものではないのです。赦そうと努力すればするほど、それが裏目に出ることがあります。何よりも、赦すという言葉は上からの目線の言葉だからです。それには「気づき」が必要で、その気づきとは「怒りや怨みは自分を滅ぼすだけだ」ということです。ですから、赦すという姿勢から、怒りや怨みを意味のないもの手放す姿勢が大事です。この気づきのプロセスは、本人の努力ではなく、神からの恵みとして与えられます。例えば、真の芸術家は、自覚する、しないにかかわらず、思考が止まった状態つまり「無心状態」で創作活動に入ります。科学者たちも思考が止まった状態の中で、アイデアがひらめきました。目覚めることによって、目覚めるとは何かが分かります。目覚めに必要なのは、目覚めていない自分を自覚することです。自らの機能不全の思考状態に気づいたとき、既にその機能不全の状態である「牢」から解放されているのです。
(寄稿 赤波江 豊 神父)