「蛇は女に言った。『決して死ぬことはない。それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ』」(創世記3:4)
アダムとエバが禁じられた果実を食べ、楽園から追放された話はキリスト者でない人もよく知っている話です。ところで、二人はなぜ禁じられた果実を食べたのでしょうか。それは、食べたかったから食べたのではなく、禁じられたから、余計に食べたくなったのです。食べるなと言われると、ますます「その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるように」(3:6)思えたのでした。「禁じられたら、余計にしたくなる」これが人間の本性で、子どもでもいたずらを繰り返すのは、「やめなさい」と叱られるからです。
さらに、神に背いたことが人間の罪の始まりと考えられていますが、私は罪の根源は、単に神に背いたことだけではなく、別のところにもあると考えています。今日の創世記の続きで神がアダムに対して、「お前が裸であることを誰が告げたのか。取って食べるなと命じた木から食べたのか」(3:11)と言ったとき、アダムは神に対して謝らず、「あなたが私と共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました」(3:12)と、その責任をエバに押し付けました。今度は、神がエバに向かって「何ということをしたのか」と言うと、「蛇がだましたので、食べてしまいました」(3:13)と、彼女もまた謝らず、蛇に責任を押し付けました。
仮にアダムが、「私が悪かったのです。どうかエバを罰しないでください」と神に謝罪し、そしてエバもまた「いいえ、私こそ悪かったのです。アダムが悪いのではありません」と二人とも神に過ちを認め、お互いをかばい合っていたら、きっと神は二人を赦し、楽園から追放することはなかったでしょう。私は、この「人のせいにする」という姿勢こそが罪の根源で、家庭でも、教会でも何か問題が生じたとき、亀裂をもたらす症状だと思うのです。何か問題が起きて人を批判し、人のせいにしても、何の解決にもなりません。それに対して、自分はどうあるべきか、自分は何ができるのかと、全てを自分に置き換えて考えてみないと何の解決にもなりません。
今年の冬季オリンピックで、日本の選手たちは多くの感動をもたらしてくれました。しかし、いつのオリンピックでも判定に疑問を感じることもあるもので、かつて2000年のシドニーオリンピックで、柔道の篠原信一選手が決勝で負けました。しかし誤審ではないかと当時の山下泰裕監督は抗議しました。私も実況で見ていましたが、明らかな誤審で、私を含めて多くの日本人は強い不満をいだきました。しかし篠原本人は「あれは自分が弱かったから負けた」「審判に不満はない」と発言しました。他人を云々するのではなく、それに対して自分はどうすべきであったかと、自分自身を深く見つめている。このようなことがあって山下監督は、篠原は一見無骨で、ぶっきらぼうだけど、彼の中には人間として大切なものが生きていることが分かったと述べていました。
(寄稿 赤波江 豊 神父)