3月1日 四旬節第2主日
黙想のヒント(第293話)

「イエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった」(マタイ17:1)

 今日の福音が伝える主の変容の出来事は、これから受難に向かうイエスが、わずかな弟子たちの前で、ご自分の光輝く姿を見せて、ご自分が真の救い主であることを示し、弟子たちを力づけた出来事でした。この主の変容という弟子たちの超自然的体験について、一つの例を参考に考えてみたいと思います。著書『死ぬ瞬間』で有名な、スイスの心理学者キューブラー・ロスは、病気や事故で意識不明となり、その後意識を回復した数百人に及ぶ人の「臨死体験」について調査結果をまとめました。それによると彼らには、程度の差はあれ、共通するいくつかの点があります。まず、夢の中で道を歩いていること、光が輝いていること、門があること、その門に近づくと、必ず白い服を着た人が立っていて、「あなたは、まだここに来なくてもいい」と言われて目が覚めた、ということです。

 私も病気で倒れて意識不明となり、その後意識を取り戻した何人かの信徒の話をうかがったことがあります。彼らもやはり同様な体験をしたと語っていました。特にある人は、夢の中で見た光は、言葉では表現できない白く美しい輝きだったと語っていました。このような、一度死を体験した人の話を聞きながら、弟子たちが経験した主の変容の出来事は、実は臨死体験に近い超自然的体験ではなかったかと思います。そして、そのような多くの人の体験を通して、イエスが語った「私は道であり」(ヨハネ14:6)「世の光である」(同8:12)「私は羊の門である」(同10:7)という言葉のイメージが鮮明となるのです。

 特に、キューブラー・ロスが語るには、このような一度死を体験した人は、全員一片の疑いもなく、死後の命を確信したということです。彼らは共通して、魂が肉体から離れるのを感じて、深い静寂と平和に包まれるのを感じ、またすでに亡くなった人たちと再会する。そして特筆すべきは、一度死を体験し、生き返った人たちは一様に死を恐れなくなったということです。

 オーストリアの精神分析学者ヴィクトール・フランクは、ユダヤ人であったため、アウシュビッツに送り込まれました。そこで彼は理性や知性を失ったユダヤ人が同胞を本能的に無意識に売り、同胞の死を見ながら平気でパンを食べる姿を目の当たりにしました。しかし反対に、同胞のため大切な自分の命を捨てる人たちの姿も見たのです。そこからフランクルは本能を支配する無意識の底に、さらに深い無意識の層(宗教的無意識)があって、そこからの呼びかけに答えた者が、多くの人の幸せのために自分の命を捨てることができることを発見したのでした。「人間は、同じ仲間をガス室に送り込むほど残酷な存在である。しかしその人間は、ガス室に向かって、主の祈りを唱えながら進むことができるほど崇高な存在でもある」と彼は述べています。このような彼の言葉から、イエスが変容の後受難に向かい、死に臨んだ理由が浮かび上がってくるのです。

      (寄稿 赤波江 豊 神父)

今日の福音朗読

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