聖パウロ三木について

パウロ三木

カトリック住吉教会の守護聖人「聖パウロ三木」


カトリック住吉教会は日本にキリスト教がもたらされて以来、最初の殉教者の一人となられた聖パウロ三木を守護の聖人としています。

教会創立時(1935年)、初代主任司祭に任命されたアルフレッド・メルシェ神父は、新設された教会を日本の聖人に捧げたいと考え、「聖パウロ三木」を守護の聖人とされ、当時のカスタニエ司教も大変喜ばれ賛成されたそうです。

理由としてはおそらく「摂津の国」のお生まれであり(阿波徳島、山城の説も有)また、今から400年以上前、禁教令で捕えられた聖パウロ三木と同志殉教者が堺から長崎西坂の刑場に引き立てられて行く途中、1597年1月10日に旧西国街道といわれる当教会の前辺りを通られた事によります。

聖パウロ三木について

聖パウロ三木は1564年(永禄七年)に武士の家に生まれ、1568年(永禄十一年)幼少時に受洗、パウロという洗礼名を頂かれました。安土城下にセミナリオ(神学校)が開設されると一期生として学び、広く学問を収めました。22才でイエズス会に入会。イルマン(=修道士)としての彼は、研鑽と信仰を深め、その信仰と人柄、優れた説教の才能により多くの人々をキリストへの信仰に導きました。

数か月後には司祭になる事が決まっていた時、秀吉の禁教令により捕えられ、同志と共に長崎の西坂まで引き立てられ処刑されました。

殉教より265年後の1862年6月8日、二十六人は教皇ピオ9世により列聖され、「日本二十六聖人」と呼ばれています。また、聖パウロ三木の確固たる信仰とその卓越した指導力により「聖パウロ三木と同志殉教者」ともよばれています。

生い立ちとその生涯

☆ 1549年(天文18年)フランシスコ・ザビエル、日本にキリスト教を伝える。

☆ 1564年、聖パウロ三木、摂津の国(他説あり)に生れる。

☆ 父、三木半太夫は三好長慶の臣下であった。1563年三好氏の臣下72名と共に飯盛山(大東市)で洗礼を受ける。(三好長慶は1539年、摂津守護代として越水城(西宮市)に入る。長慶自身は信徒ではないがキリスト教を良く理解し、布教活動等を赦し、キリシタンを擁護した。)

☆ 1568年、パウロ三木、兄と共に受洗。洗礼名はパウロ。

☆ 信長、イエズス会オルガンティノ神父に安土城下にセミナリオ開設を許す。高山右近が援助。

☆ 1580年、パウロ三木、セミナリオの一期生となりイエズス会の教育を受ける。

☆ 1586年8月、パウロ三木、イエズス会に入会し最初期の日本人会員の一人となる。彼は非凡な才能の持ち主であり、宣教師として肥前(長崎)有馬大村に布教、素晴らしい成果を上げる。その後大坂に移り、オルガンティノ神父を助け布教活動を行う。(仏教にも通じ、僧侶を論破し、改宗させた逸話も有)

☆ 1596年12月9日、禁教令下、大坂のイエズス会の家で捕縛され、12月31日に京都に送られる。

☆ 京都一条の牢獄で、彼は、御主イエス・キリストと同じ33歳で御主と同じように十字架上で死ぬことを深く喜び、獄番の下級役人に天の道を説いている。

☆ 彼の説教には不思議な説得力があり、多くの人が魅せられたといわれている。当初から説教師として名を馳せていたが、彼の名が歴史に刻まれたのはその殉教と列聖による。

聖パウロ三木 最後の説教

聖パウロ三木は、西坂の刑場で高い十字架上に掛けられても心乱さず、十字架を祭壇として、命のある限り説教を続けました。「全ての人々を赦す」という最後の言葉はイエスのみ旨に添い、彼の真の信仰の証として全世界で高く評価されています。
 

「ここにおいでになるすべての人々よ、私の言うことをお聴き下さい。私はルソンからの者ではなく、れっきとした日本人であってイエズス会のイルマンである。私は何の罪も犯さなかったが、ただ我が主イエス・キリストの教えを説いたから死ぬのである。私はこの理由で死ぬことを喜び、これを神が私に授け給うた大いなる御恵みだと思う。今、この時を前にして貴方達を欺こうとは思わないので、人間の救いのためにキリシタンの道以外に他はないと断言し、説明する。」

「キリシタンの教えが敵及び自分に害を加えた人々を許すように教えている故、私は国王(関白)とこの私の死刑に関わったすべての人々を赦す。王に対して憎しみはなく、むしろ彼とすべての日本人がキリスト信者になることを切望する。」

  (これは、二十六聖人の殉教を直接見聞したフランシスコ会員マルセーロ・デ・リバデネイラが、マニラに追放後書き記したパウロ三木の最後の説教です。)

聖パウロ三木の生涯を貫いた強い信仰とその背景

「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」

(ルカによる福音書23章34節)

十字架上でイエスが言われたこのみ言葉は、聖パウロ三木の精神の根底に息づいています。では彼はどのようにしてイエスのみ心に近づいたのでしょうか。父、三木半大夫や母マリアから伝えられた信仰、修練院での高山右近との出会い、そしてイエズス会での祈りの生活は、イエスのみ心に近づく大きな契機になったと思われます。

日本二十六聖人 「聖パウロ三木と同志殉教者」について

聖パウロ三木は、日本二十六聖人の中でも際立った熱意をもって生涯を通じ布教にあたりました。彼らが布教にその生涯を捧げ、殉教した時代背景は下記のようです。
 

☆ 1549年(天文18年)フランシスコ・ザビエルの来日により日本にキリスト教の布教が始まる。

☆ 1587年6月19日、秀吉は突然「伴天連追放令」を出し、キリスト教を禁じ(天正十五年)、宣教師に国外退去を命じる。

☆ 1596年(慶長元年)12月8日、キリスト教が人々に浸透しすぎるのを警戒した秀吉は、フランシスコ会士、およびその信者に対する逮捕令を出す。

☆ 12月9日、京都フランシスコ会聖堂にいたレオ烏丸、パウロ鈴木、ボナベントゥラ、トマス小崎、およびガブリエルと来日したフランシスコ会員6人が逮捕される。

☆ 12月10日、大坂アンドレス小笠原の家にいたパウロ三木、ヨハネ五島、ディエゴ喜斎のイエズス会士3人が拘束され、京都、大坂に居た宣教師と熱心な信者協働者15名がつぎつぎと捕えられる。

☆ 1597年1月3日、捕えられた24人の修道会士と信者達は、秀吉の命により見せしめのために、堀川・一条戻り橋で鼻と耳を削ぎ落とされ、京都の目抜き通りを牛に引かせた荷車に乗せられて引き回わされる。

☆ 1月4日未明、牢を引き出された24人は、大坂、堺と引き回され、堺の牢に監禁される。

☆ 1月8日、秀吉は24人を長崎で磔刑にする判決を下す。
 

死刑宣告文

この者たちはルソンの使節と称し、我が国に来て京に留まり、過ぎし年厳禁せるキリシタンの法を広めたり。因りてその法を奉ずる日本人と共に死罪に処す。故に二十四名は長崎に於いて磔(はりつけ)にするものなり。ここに改めてキリシタンの法を禁制す。諸人とくと心すべし。違う者あらば一族郎党ことごとく死罪たるべし。

慶長元年十一月二十日(1597年1月8日)

堺の奉行所の前に布告された
 

☆ 1月9日、堺を出発した殉教者達は、後に殉教者に加わったペトロ助四郎と、フランシスコ吉の2人と共に、酷寒の中、素足に薄衣で遥かな殉教の地長崎・西坂の丘へ向かって歩き始める。

☆ 1月10日、大坂牢獄を出発して兵庫宿へ。住吉教会のすぐ近くを通る。
 

京都から長崎までの長い道のりの中でパウロ三木は、その才気で皆を励まし、またフランシスコ会員やイエズス会士と、司祭、修道者、信徒の全てを励まし、道中で説教を行い、西坂に到るまでその指導力を発揮し信仰を貫くよう皆を励まし続けた。
 

2月5日の朝、西坂の丘は処刑される殉教者を一目見ようとする人々で埋められていた。殉教の地へたどり着いた二十六人の殉教者達は、その場で十字架に縛り付けられ、その十字架は一列に並べて西坂の丘に建てられた。

日本二十六聖人の列福と列聖

日本での二十六人の殉教は、すぐにローマに伝えられその信仰の強さはローマで驚きと崇敬の対象となった。イエズス会やフランシスコ会等で列福運動も始められ、僅か30年後に「二十六人が列福」されている事をみても当時の反響の大きさがわかる。

☆ 1597年2月5日 長崎の西坂で磔刑。この出来事はすぐにイエズス会他によりローマに報告。列福運動となる。

☆ 1627年9月14‐15日 教皇ウルバノ8世により列福される。二十六人の殉教から僅か30年余の早い列福は、この殉教が示す信仰がヴァチカンでいかに崇敬されていたかがわかる。

☆ 1862年6月8日 教皇ピオ9世により列聖される。殉教から265年後、ピオ9世、彼らを「日本二十六聖人」に上げる。江戸幕府が開国へと舵を切った年であり、日本での宣教の再開に望みを託したとも思われる。

☆ 1597年2月5日の日本二十六聖人の殉教記念日は、ローマ教会の定めでは「聖パウロ三木と同志殉教者」の祝日と呼ばれている。

写真はバチカン美術館所蔵のパウロ三木肖像、フランシスコの家展示から撮影

日本二十六聖人「聖パウロ三木と同志殉教者」殉教後の日本の信仰

豊臣から徳川の治世になっても、キリスト教禁教令は続き、弾圧と殉教が繰り返され信仰は途絶えたかに思われたが、信徒の強い信仰は秘かに受け継がれていた。明治に入り新たな動きがあり、その数年後ようやく日本にもキリスト教が復活した。
 

☆ 1859年 禁教令が緩和されパリミッション会の宣教師が来日。外国人居留地区が設置されそこに居を於いての宣教が始まる。

☆ 1864年(元治元年)12月29日 大浦天主堂完成。1865年(慶應元年)2月19日 献堂式。

☆ プチジャン初代主任司祭、信徒発見。ニュースは驚きと共に広まる。まだ禁教令は緩和されたといっても継続しており、新たな迫害(浦上四番崩れ、五島崩れ等)が始まるがヨーロッパ諸国から非難される。明治政府は1873年禁教令廃止を布告。

☆ 1899年(明治32年)公式に布教がはじまる。

聖パウロ三木を守護の聖人とする住吉教会の信仰

「信仰年にあたって」

2011年秋、教皇ベネディクト16世は、特別聖年として「信仰年」の開始を宣言されました。期間は第二バチカン公会議開幕50周年と「カトリック教会のカテキズム」発布20周年にあたる2012年10月11日から、2013年11月24日の「王であるキリスト」の祭日までとなっており、その間、信徒は祈りと共に自分の信仰を見つめなおしました。

「殉教者の列聖を生きる」 四年継続のテーマ

2012年は、「日本二十六聖人殉教者列聖150周年」、「第2バチカン公会議開催50周年」に当たり、2015年は、「信徒発見」、「再宣教150周年」に当たるので、住吉教会では2012年~2015年のテーマとして聖パウロ三木と日本二十六聖人の信仰に倣い「殉教者の霊性を生きる」-信仰刷新の年―と定め、祈りと信仰の継承に努めています。

2012年には日本二十六聖人発祥の地、京都を巡礼しました(写真)

日本二十六聖人と聖パウロ三木への祈り

住吉教会では日本二十六聖人の崇高と信仰に倣い、聖パウロ三木のご保護を願い、毎年2月5日の日本二十六聖人の祝日、並びに年間を通して下記の祈りを捧げています。

日本二十六聖人殉教者への祈り (住吉教会2012年版)

聖パウロ三木と同志殉教者よ、
あなたがたは京都から長崎までの十字架の道を歩み、
キリストのためにいのちをささげてくださいました。
私たちが、あなたがたにならい、勇気を持って信仰のあかしをたて、
どんな試みにあっても、終わりまで耐え忍ぶことが出来るように力づけてください。
そして、キリストのみ栄を求め、人々の救いのために働くことが出来るように取りついでください。

私たちの主イエス・キリストによって。アーメン。

住吉教会守護の聖人 聖パウロ三木への信仰宣言(結びのことば)

私たち住吉教会の信徒は、守護の聖人 聖パウロ三木の偉大な愛の心、強い信仰に倣い、日々よりよき共同体づくりに励み、一人ひとりがより信仰を強めることが出来るようにつとめ、祈ります。
 

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聖パウロ三木を守護聖人とするカトリック教会

住吉教会、泉南教会、徳島教会、甲賀教会、福岡・西新教会、諫早教会、福島桑折教会、北海道池田教会、岩手久慈教会

横浜司教座山手教会の右脇祭壇に侍姿のパウロ三木の絵が掲げてある。

聖パウロ三木の聖遺物

聖パウロ三木の遺骸は80日間さらしものにされていたが、関白の許しを得てフィリピン等に運ばれその後、プチジャン司教(長崎の信徒発見)が日本に持ち帰り、現在はショファイユ幼きイエズス修道会聖堂(西宮市仁川高台)に安置されています。

・ 京都市のフランシスコの家(現在は閉鎖中)にも1993年に分骨されて遺骨がありました。(詳細は生野修道院にお問い合わせ下さい。)

・ 泉南教会にもパウロ三木の聖遺物があります。

日本二十六聖人を守護聖人とするカトリック教会

大浦天主堂、日本二十六聖人記念聖堂、丸山、大籠、大河原、佐野、鹿島、本所、二俣川、二宮、吉田、太閤山、美濃加茂、宇治、高槻、関目、萩、時津、島原、田平、堂崎、日向、指宿、出水、手花部、チヴィタヴェッキア(イタリア)、ブラッドフォード(カナダ)・・・

シチリア・パレルモの教会に日本二十六聖人の3人のイエズス会員を記念する脇祭壇がある。(2月5日はシチリアの聖アガタの祝日)

住吉教会の沿革と聖パウロ三木像

住吉教会は1935年(昭和10年)5月、パリ外国宣教会のカスタニエ司教によって御影町に設立され、翌1936年に現在位置(住吉宮町)に移転しました。神戸市内の教会の中でも歴史ある教会の一つです。

阪神大水害、神戸大空襲、台風、先の大地震等による災害で被害を受けましたが、聖パウロ三木のご保護により今日まで無事に信仰を守り続けています。

阪神・淡路大震災後、近隣地区の再興と共に歩んできましたが、約10年を経過した2006年6月に新聖堂を献堂。神戸東地区の宣教拠点として、同時期に再建した隣接の「星の園幼稚園」と共に地域の方々から親しみを持って受け入れられており、2015年には創立80周年を迎えます。

またペルー等の在日外国人の心の拠り所となっておりスペイン語のミサと共に毎年10月に行われるペルーの人達を中心とした「セニュール・デ・ロス・ミラグロス」(奇跡の主)のお祭りはもう20年程続いています。

当教会の玄関入り口に据えられている「聖パウロ三木」像は、1979年2月に当時の主任司祭のご母堂より寄付されました。2012年「列聖150年」を記念して植樹された「玉の浦」椿が季節には殉教の赤い花をつけて訪れる人を迎えています。



 

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